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橋本努 講義「経済思想史」北海道大学経済学部 no.6.

毎回講義の最後に提出を求めているB6レポートの紹介です。

 

 

荒澤由佳 11/29

  

  芸術と宗教について

  ウェーバーは本のなかで知性主義が展開され、生活の合理化が進展してくると「芸術はいまやしだいに独立の固有な価値のコスモスを自覚的に打ち立てるようになり、そして、ある種の現世的な救いの機能を受け持つようになる。…」と著し、宗教を代替するものとしての芸術について述べている。競合的関係に立ったこの宗教と芸術ではいったいどちらがより人間の魂を救えるのであろうか。

  確かに宗教とは人間を救うために誕生したものである。世の中が飢饉等で不安定になった時、新しい宗教が誕生するということは鎌倉時代の浄土宗、浄土真宗等の誕生や、江戸時代の大飢饉期における天理教の誕生を見れば自明のごとく、歴史が明らかにしている事実である。一方芸術も今の世に絵画鑑賞や音楽観賞として存在している通り、人間の心を和ませかつリフレッシュしてくれるものであるという点で、人間の魂を救うものであり、また鑑賞ではなく自ら製作することも自分の心の中を見つめ、形にしていくという点で心を充たさせ、人間の魂を救うものであると言える。ここで芸術とは単なる社会のなかの一ジャンルであり、趣味としてのものであり人間の魂を救うというような大げさなものではないと考える人もいるかもしれない。しかし、”;趣味である”;ということ自体が人間の心の充足を求めてのことであるゆえ、やはり人間の魂を救うと言えるのではないか。一見すると宗教も芸術も同様に人の心を救うものであるのだから、宗教の代替としての芸術という構図はイコール関係で結ばれ、どちらも同レベルで人間の魂を救うように見えるかもしれぬがそうではない。

  なぜなら、宗教とはその誕生の背景を見て分かるように、人間が生命の危機に立たされた時に、心のよりどころとされるものとなり人間の魂を救うものであり、芸術とはウェーバーの言葉を借りれば、日常性からの、理論的・実践的合理議の増大する抑圧からの救いであり、双方には差異がある。この『宗教社会学論選』の著された1920年あたりは、第一次世界大戦やロシア革命、ドイツ革命等が起こり、世界的に不安定な時期であった反面、18世紀から始まった産業革命も成熟期を迎え(各国に広まり)世の中の流れがすべて効率性を追求し、合理性を追求するものであった。このような時代の中で人間は孤独を感じ、美術に救いを求めたのかもしれぬ。現に、この時代は感情や想像力に訴えるロマン主義が主流となり、音楽ではシューベルト、ショパン、ワーグナーらのロマン主義音楽が起こり、絵画ではマネ、モネ、ルノアール、ドガなどの印象派の絵画が現われている。

  宗教とは人の心に深く入り込んでいくが”;狭く深く”;という感が強く、逆に芸術とは多くの人の心のよりどころになるが”;広く浅く”;という感が強い。その時代背景により、どちらがより人の魂を救うかは変わるものであるが、この『宗教社会学論選』が著された時代は合理化が進められていたという時代背景より、人間は日常の増大する抑圧からの救いを求めていたのであろうから、芸術の方が宗教よりも人間の魂を救っていたと思う。

 

   荒澤由佳 1/10

  

  社会政策論について

  個人主義についてとも同様に、社会政策論についてもポパーとミーゼスは相反する提言をしている。ポパーが消極的ルール功利主義をとるのに対して、ミーゼスは消極的行為功利主義をとっている。この2つの提言で、どちらがより社会に適したものと言えるのだろうか。

  はじめにミーゼスの消極的行為功利主義について考えてみる。これは社会契約論者のロックからの流れということであるが、社会政策については個々人が合理的になればよいという反介入主義をとるならこれは(ラッサールが皮肉的に使ったものであるが)夜警国家に近いものがあるように思われる。この消極的行為功利主義の利点は、財政面からみて安価な政府たり得ることであろうか。逆に欠点としては、一見すべてを個々人の決定に委ねるという自由主義的にも取れるようだが、実は自由放任主義的性格をもつにすぎないということにもなるということである。ミーゼスの消極的行為功利主義は近代市民社会では実際にとられていた政策であるし、市民社会や自由を求める声がわきあがった時期(つまり初期段階)にとるには有効なものとなるであろう。

  次にポパーの消極的ルール功利主義について考えてみる。これは制度を設けて、福祉政策を行うというまさに福祉国家という現代国家の特徴そのものである。歴史の流れにそってみてみれば自由放任の消極的行為功利主義の弊害を生める形で、福祉国家的な消極的ルール功利主義ができている。

  両者のうちどちらが良いかというのは一概には言えない。それはその時代の流れ、国民のニーズ、社会構成によって異なってくるからである。ただ、前述したように歴史の流れを追って考えると、消極的行為功利主義から消極的ルール功利主義へ移行してきたことは事実であり、現在の世界には後者の方が適しているであろう。しかしながら、今後自由主義、個人主義の風潮がますます高まり、国家への要求が少なくなり、再び消極的行為功利主義へ戻る時がくるかもしれぬが、それについては前回のB6レポートで述べた個人主義についてと合わせて考えねばならぬことである。

 

 

   経済学部3年 松浦 麻里子

  

  * これからの教授と生徒はどうあるべきか*

  「教授」と「生徒」は共に大学に所属し、異なる立場にあるが、一方がいなくなれば、自分の立場が失われる。そのため互いの立場を尊重しあう必要があると考えられる。立場の違う両者の共通点は、互いに現状に満足して、いわゆる「ぬるま湯にどっぷり漬かった状態」にあることである。「教官」の方は、「教授」という地位に上り詰めれば、安泰であるし、「生徒」も入試にパスさえすれば、学生としての地位が一定期間保障されているからである。このような現状を打破する為には私は次のような大学改革を考えました。

  1、 「教授」を「研究専門者」と「教育専門者」に二分する。

  「教授」にもそれぞれ得意、不得意がある為、それぞれの役割分担を行うことによって、効率的な活動を行うことが出来る。また、「研究専門者」に対しては短期、中期、長期の研究計画を予め提出させ、達成度合いなどで業績を評価し、ポストを入れ替えることも検討する。「教育専門者」は、学生による評価、勤務態度などで評価を行う。そして高度教育の水準を確保する為に「研究専門者」と「教育専門者」で対策を考える。

  2、 既存の学部制度の廃止

  「生徒」の方を改革する為、既存の学部制度を廃止して、理系、文系位に分類し、大学の目的を社会一般に通用する知識の獲得を目的とする。更に専門的知識を身につけたいものは進学するようにする。このため一つの専攻等の履修単位を1年半ぐらいで終わる位(60単位程度)にし、単位が揃ったら論文を仕上げ習得資格を授与する。それが終了すれば卒業資格を得ることが出来る。人によっては、複数の資格を得て卒業し、また一つだけで卒業することになる。また在学期間を4年以内とする。

  利点

  ・ 大学生活を通じて自分の適正を見つけることが出来、また失敗した学生も軌道修正が可能となり、目的意識と緊張感を持った学生生活を送ることが出来る。

  ・ 学部による就職有利、不利が解消される為、学生が本当に勉強したいことを学ぶことが出来る。

  ・ 在学中に複数の習得資格獲得可能な為、これからの能力社会に対応できるし、学生に楽に卒業できるという意識をなくさせる。

  ・ 大学の大衆化を防ぎ、また在学期間を4年以内にすることで、労働力を増大させることができ、税収upにつながる。更に支払能力のない学生の国民年金は親が負担するという矛盾した状態も労働力の増大で解消できる。親の経済的負担の軽減。

  問題点

  ・ 不景気時の就職問題

  ・ 教育水準の維持

  ・ 理系に対して適応が果たして可能か?

* 学問による「主知主義的合理化」はなにを意味するのか

  「主知主義的合理化」が重視されると、人々の知識水準は上昇するが、能力(記憶力)限界がある為、また知識を持っているだけでなく、それを活用する事で、生活水準を引き上げる為に、「実用主義」が必要になってくる。「主知主義的合理化」傾向は、学問はある範囲の人々に限定され、学問的知識は生活水準を向上させる為の知識ではない事を意味する。

 

   経済学部3年 西村 慶人

  

  宗教を揚棄する事と人間の解放について

  宗教の揚棄とはいかなる形で行われるのだろうか。解放された人間はその解放が完全であれば、自らの主体的選択においても決して宗教へ進む事はないのであろうか。あるいは宗教が捨て去られた状態が真の解放であるからと何らかの権力の介在によって強制的に行われるのであろうか。前者が想定されているとすれば、ある面理想的ではあろうが、これでは数多くの人間があまりに抽象的・画一的に扱ってしまっているし、また普通に考えてもありえる筈はないであろう。思うに宗教とは主に自然など、後には他に人間関係など世俗的なものに至るまで、窮地に立たされた人間の救いを求める、ある面無意識的な心情の吐露の総体であり、偶然的に現れた一種のカリスマにその祈る心情を体化させたものではなかろうか。祈りの言葉は宗教を信仰するものにのみあるのではなく、例え、一定の規則がなくても自ら考え、悩み、恐れる人間には固有のものではないか、故に、主体的に人間が宗教を要しない状態とは全て人間が悩む事を辞める、すなわち考える事を辞める状態を作ることであり、人間が人間として存在する限りありえないと思われる。後者を考えると、これは人間の真の解放とは明らかに矛盾している。何らかの力の介在を必要としている時点で、それは一般に受け入れられざる状態なのであり、それが総体としての人間の解放であろう筈はない。更に、宗教を捨て去る事を教義とする事もまた一つの宗教である。

  人間の解放がなされた状態とは、個々人が主体的選択を行った結果が全体を必要最小限において統制するシステムと全く矛盾しないような事をいうのではないか。

 

   経済学部3年 布施 功馬

  

  今日の講義は、西欧的な資本主義、宗教社会学の問題であったが、話を聞いているとウェーバーは西欧近代における資本主義ばかりを評価し、これこそが真の資本主義だと言わんばかりである。本当に他の国々では無際限に営利を追求し、非合理的・投機的な暴力行為による営利追求ばかりが行われていたのだろうか。疑問を感じる。また、それでは西欧では暴力行為、戦争による強奪が存在しなかったのかというのも疑わしい。歴史的背景が分からないのではっきりとした事が言えないのですが、先生は西欧近代における資本主義に特殊性があったと思われますか。

  次に、西洋資本主義がインドの代数学を利用したという話がとても興味深かった。どの文化も最初は”;マネ”;するもでのある。しかし日本は批判されている。先日ある教科でレポートを出され「21世紀の資本主義」という本を読み、その中は、日本の”;マネ”;の技術では21世紀はやっていけないという内容だったが、僕は”;マネ”;をするという事、そしてそれを発展させ利用していく事が日本の得意分野ならそれを伸ばしていくべき、そしてその業界のリーダーとなったら新技術開発をすればいいのでは、と考えた。話がずれてしまったので講義内容に戻すと、次に、直観について、という点だが、この直観を批判されてしまうと僕たち学生は全く意見を述べられなくなってしまう。特にこのレポートを書く事など理論的な背景や理由などなしに直観で書いている事が多い(少なくとも僕は)。僕が考えるには、直観的な意見でもどんどん発言すべきだと思う。そして他の人の意見も聞き、その中で自分の考えの浅はかだった点や甘さを見つけていけばいいと思う。対象から距離を保ち醒めた態度で分析するのが本当にベストなのだろうか。距離を保ちすぎて対象が見えなくなってしまう事はないのだろうか。先生はこの直観の否定についてどう思われますか。もし賛成だったら学生のレポートなんて集めないと思うのですが。学生というのは直観で物事を判断し、もしそれが誤りであったとしてもなかなか気づかないと思う。そしてそれを先生や友人に実際に口に出していう事によって議論をし、指摘を受ける事によって真実に近づいていくのだと思います。

 

 

   両角良子

 

  ・(11/8)マルクスの『哲学の貧困』中で、気になった箇所がある。それは「労働者たちは、もはやただ彼等が労働に従事した時間の量によって互いに区別されるにすぎない。しかもなお、この量的差異は、労働に従事する時間が一部分は体格や年齢や男女差やのごとき純粋に物質的な原因に左右され、また一部分は忍耐や無感覚や勤勉やのごとき純粋に消極的な道徳的原因に支出される限りにおいて、一定の見地から質的なものになっている。」という箇所である。消極的に対する「積極的な道徳的原因」とは何か、そしてこの箇所がどういうような意味をもつのか、という点について述べることにする。

  マルクスは上述箇所とその前後で、量的差異というものが物質的原因と消極的な道徳的原因に左右され、消極的な道徳的原因という見地から質的差異という正確も存在するが、その質的差異は特所の専門をなすなどのものではないとしている。「積極的な道徳的原因」を考える差異のメルクマールとなるのは「積極的」「消極的」とは何についてなのか、という点だろう。消極的な道徳的原因の示す質的差異がマルクスの言うように「部分的」であり、「せいぜい末の末の性質において」であることから、あくまで小さな度合でしかないと解釈することができる。そしてこの小さな度合でしかない質的差異は「特殊の専門をなすなどとは到底言えない」という描写があることから、質的差異の大きな度合にある状況とは「特殊の専門をなす」ことと理解することができ、消極的な道徳的原因=質的差異が小さな度合であることを表わす要因、質的差異が大きな度合であることを表わす要因=特殊の専門をなすこと、消極的な道徳的原因の反対が積極的な道徳的原因であることから、積極的な道徳的原因とは質的差異が大きい度合であることを表わす要因、つまり特殊の専門をなすことであると結論づけることができる。また徹底的な分業により労働の前では人間は人間性を失うといったマルクスの描写を見た場合に、忍耐や無感覚、勤勉といった消極的な道徳的原因こそあれども、特殊性・専門性を表わす積極的原因が一切ないことをみれば、この結論の正当性はより強くなるだろう。

  では次にいよいよこの箇所がどういう意味を持つのか、という問題になるが、以下ではあくまで私見を述べたいと思う。というのは、この箇所では論理性の整合しない要素が存在するような気がするからである。私は前述した部分で消極的(積極的)な道徳的原因の「道徳性」についてはあえて言及しなかった。誰にとって、あるいは何にとっての「道徳的」かを述べなくとも理論上説明がついたからだが、ここではこの「道徳的」に焦点をあててみたい。

  資本主義社会においては、消極的な道徳的原因は資本家にとって「道徳的」であり、 積極的な道徳的原因は資本家にとって「道徳的」とは必ずしもいえない。もちろん、忍耐・勤勉・無感覚・特殊性・専門性は、いずれも普遍的な意味で「道徳的」であるから、上述の表記は資本家の立場を強調した際のその恣意的なとらえ方を示すものである。

  さて、これに対しマルクスが考える労働者はどうか、ということになる。マルクス的な分業否定の立場なら、消極的な道徳的原因は「道徳的」とはみなさないであろう。また、積極的な道徳的原因を資本主義下でなら、機会への隷属、人間性喪失からの脱却として「道徳的」とみなすかもしれない。したがって資本主義が永続的であるなら、その中で専門性や特殊性あるいはそれに近いものを希求するのが労働者の行動であり、現に資本主義国家で実際に生じて資本主義の改善がなされてきた。これはマルクスの時代にも合った動きであり、イギリスの工場法の制定などが上げられよう。これらの試みの成果に幻滅してマルクスは共産主義社会を求めたとも言えるかもしれないが、「資本主義ならば専門性・特殊性の維持」と上述を示した場合、対抗して「共産主義ならば専門性・特殊性の撤廃・全人格の発展」という命題が成立するのか、というのが私の疑問である。「共産主義ならば……」の対偶は「専門性・特殊性の維持ならば、資本主義」となるが、この対偶は話が逆になっている。なぜなら、資本主義から受けた苦痛の中から人間性の疎外といったものへの反発、特殊性・専門性が強調されるのであり、その強調の結末が改善されるか、さらに悪化するかの違いはあるものの、対偶を認めることはできず、命題も疑わざるを得なくなる。マルクスに聞いてみたい点といえば、このあたりの論理の整合性についてである。

   ・(11/12)

   マルクスの『ゴーダ綱領批判』の「ドイツ労働党綱領評注」に示されているマルクスの批判する内容のごく一部について個人的見解を述べることにする。ゴーダ綱領では労働に対して『労働はすべての富およびすべての文化の源泉である、そして有益な労働はただ社会において且つ社会によってのみ可能なるが故に、労働の収益は平等の権利によってすべての社会成員に属する』としている。これに対してマルクスは、現状の社会では無益な労働や公安を害する労働をして無為な生活を送る労働者が存在すること、その労働者の置かれる労働条件の維持と社会の維持に富・文化が供給されてその残りの部分が労働者に供給されることを指摘し、これを批判している。確かにこの批判は正しい。しかしながら、あくまで「部分的」である、と私は感じる。その理由は大きくわけて二つある。ひとつは論理的な面である。マルクスはゴーダ綱領の『有益な労働はただ……』に対し『労働が社会的に発展し且つそれによって富および文化の源泉となるにつれて、労働者側における貧困と堕落、非労働者側における富と文化とが発展する。』とのべたが、果たしてゴータ綱領の一文からこのような批判点を躊躇なく指摘できるのか、という…である。マルクスの批判点を述べるためには、どうしてもひとつの仮定が必要であり、それは『パイが拡大し、かつ拡大途上での配分方法は常に労働者にとって無益な配分方法であり続ける』というものではないかと思う。このような機会でもないかぎり、マルクス経済学的な用語は使用することがないので、以下ではそれらの用語を若干使用したいと思うのだが、まず私が説明しなければならないことは、マルクスの述べた「無益な労働」(講義プリントでは「効用ゼロの労働」をどう解釈したのかということである。私はこれはその当時の実情をふまえて、ゴーダ綱領的な「有益な労働」と「有益な労働」に対するマイナス要因の相殺結果であると思う。これを例示するものとしてもっとも簡単なのはさしずめ所得によるケースである。「有益な労働」を生活資料+α(α≧0)の労働所得として、「有益な労働」に対するマイナス要因をαユ(≧0)の所得とし、資本家の所得あるいは拡大再生産への投入分に回されるとしたときに、α-αユ≦0となるケースが、私の解釈した「無益な労働」である。α-αユ≦0の示すところは、労働者の受け取る所得が生産資料分もしくは生活資料をも割るケースである。αやαユは所得に限らず労働から受ける精神的・肉体的な損益ととらえれば、より普遍的な意味を持つだろう。いずれにせよ、私が必要であると述べた過程とは、このα-αユが、富・文化の発展の段階で0以下で場合によっては労働者にとってさらに悪化の方向へ向かうという点である。生活資料を割るのはおかしいという反論もあるかもしれないが、マルクスが想定した労働者はマルクス経済学での想定以上に苦しい局面にある労働者ではなかったか、と思いこのように表記した。そしてさらに付け加えなければならないのは、富・文化が発展するつまりパイが拡大するという仮定の重みである。拡大過程においてもなお資本家が自己の取り分ないしは拡大再生産分を多く取ると仮定すれば、マルクスの反論はなんら問題はないが、もし縮小したらどうするのか。生活資料を圧縮したとしても限度があり、その限度額が資本家の取り分を上回る可能性も生じてくるのではないか、ということである。いずれにせよ、いえることは、マルクスの反論は確かにある一定の仮定を設ければ成立するが、それに比べた場合ゴーダ綱領の一文の方がより普遍的であり、マルクスの反論は直接的な反論とは言えないのではないか、ということである。

   

  マルクスの『経済学・哲学草稿』において、今回問題としたいのは、第一草稿の(四)資本の蓄積と資本家間の競争中のぺクールの著作からの引用部分である。「競争は任意の交換以外の何ものをも示していない。(中略)激烈な競争場裡における富と時間と努力との消耗または途方もない濫費である。」という競争市場社会に対する批判箇所について思うところを紙面の許すかぎり述べてみたいと思う。それはまず第一に「濫費」という言葉から述べることができる。「濫費」というからには、その背後には、現行の社会形態が濫費を放置している怠慢に対する批判的な見解あるいは現行の社会形態が本源的に濫費を容認するものであるとし現行の社会形態の否定をも含意した見解があり、この場合後者である後者であることはいうまでもない。が、ここでさらに考えたいのは、別の社会形態を思慕しながら現行の形態を「濫費」と断言することにどれだけの説得力が存在するのか、ということである。資本主義社会が「濫費」であると思うのは、一種の自己嫌悪的な反省となるが、一度共産主義的社会を思慕した視点から鳥瞰した場合には、共産主義的なtoolのかわりに資本主義的なtoolが使われている限り、それは必然的に「濫費」という語しか選択しないのではないか、ということである。このように述べると早速これに対し批判が生じるであろう。それはたとえば、「このような指摘は共産主義者が偏見でものを言っていると決めつけたものであり、冒涜的行為に近い」といったものである。確かに誤解を与える表現であるといわざるを得ない。しかしここで本当に述べたいのは、共産主義者が公正明大な視点から資本主義社会における競争市場をみたとしても、かならず「濫費」と断言できるのか、ということである。つまりさらに言い直すとすれば、競争市場を想定しない共産主義社会を思慕する人々が「資本主義社会が濫費の温床であり、それは共産主義社会ではないからこのような事態が生じるのである。」といわずに競争市場社会の「濫費」を説明することができるのか、ということである。仮に今ここで「説明することができる」と仮定してみよう。が、ここで行われる「説明」はあくまで、資本主義社会が自己反省をする場合と大差はないだろう。では、あくまで「共産主義社会ではないから濫費が生じる」といわなければ説明不能である、と仮定し、しかしながら自己の立場に都合の良い偏見に満ちた解釈を加えることなしに、「濫費」の説明をすることは可能である、仮定してみよう。もっとも簡便な説明は客観的に判断したとき、共産主義社会で生じるさまざまなコストよりも資本主義社会で生じるさまざまなコストの方が絶対的に大きいということを証明するだろう。が、ここで生じるのは共産主義社会と資本主義社会の客観的なコスト比較が可能か、という疑問である。初期のマルクスの著作からはこれを可能とするだけの判断要素が足りないから不可能である。と答える人もいる。あるいはまた20世紀において存在する共産主義国と資本主義国の経済成長性を比較してそこから両国のコストを割り出せば、コスト比較は可能であると答える人もいるかもしれない。私個人は前者のような考え方はその通りだと思う。そして後者のような考えは、今議論の対象としている共産主義社会が変容した形で具現化されたものを議論の対象にすり替えているため、私は同調しない。が、いずれの考え方も客観的なコスト比較の可能性の有無を論ずる際に大局を外している点では同じである。では大局とはなにか。ここで根幹に据えなければならないのは、コスト認識の問題ではないかと思う。二つの経済社会の客観的なコスト比較を可能とする、コスト認識のための「装置」といったようなものが存在するのではないかということである。存在しないのはいうまでもない。

   (12/10)

   ウェーバーの「支配の諸類型」の第二節官僚制的行政幹部を伴う合法的支配、王官僚制的=単一支配制的行政について所見を述べることにする。ウェーバーは、官僚制とは、資本主義だけではないが、とりわけ資本主義において歴史的根源からの要求にするものだと述べている。さらに、資本主義と官僚制とは元来は別々の歴史的根源からの生長にするものだとしたうえで、資本主義をその経済的

  基礎として官僚制が存立しえたと述べている。このあたりは、疑問の余地はない。問題はこれ以後で、ウェーバーが官僚制は合理的な官僚制的行政において、合理的な知識の支配の不可抗力に束縛されているのに対して、私的な営利利害関係者、つまり資本主義的な企業者だけが、その利害関係の領域内において、知識――専門知識と事実認識――の点で、官僚制に勝っているのみである、と述べている点である。「利害関係の領域内において」というからには、別の領域も存在するのだろう。もちろんその通りだと思う。また、ウェーバーが小経営のみが官僚制を持たないと述べていることから、ここで述べられている「私的な営利利害者関係」を小経営者ではない、中小・大企業と仮定すると、前述の別の領域とは、官僚制に勝らない点もしくは官僚制的な点そのもののいずれかにある、ということが出来よう。だが、官僚制よりも優れている、とされる「知識ー専門知識と事実認識」は必ずしも官僚制とは関係なく、或いは全く影響を受けることなく優れており、資本主義的な企業者だけが、官僚制的で合理的な知識の支配の不可抗性から解放されているとは必ずしも言えないのではないだろうか。今ここで企業を官僚制的でない部分(「利害関係の領域」)と官僚制的な部分としてみよう。簡単化のため二分したが、官僚制的な部分には組織などを考えてみよう。この時、組織と行った官僚制的な部分が「利害関係の領域」に影響を与えているのは言うまでもない。従って「企業」と限定して述べる場合には、ただ単に「利害関係の領域」を企業者は有するため、その面では知識の点で官僚制に勝っている、と判断するよりはむしろ「領域間の相乗効果として発生したもののうち、合理的な知識の支配の不可抗性から免れて表出したのが、起業者の知識ー専門知識と事実認識である」くらいに表現しておかなければ、企業内の官僚制的要素を論理構成に組み込むことが出来ず、さもなくば、この要素を論理構成からあえて欠落させなければなくなるのではないのだろうか。企業とそれ以外の公平性のためにも、私個人は組み込むことが望ましいと思いながらこの箇所を読んだ。

   そしてもう一つ、所見として述べておきたいのは、ウェーバーが企業者以外を無意識のうちに軽視している表現である。「(中略)それ(企業者)以外のすべてのものは、大規模団体においては(中略)官僚制の支配に屈服することになる(()内は両角にする)」先にウェーバーは官僚制の起源を歴史的必然性に求めた。この他に考えつく選択肢は「はじめから存在したものが、存続した」くらいだろう。つまり、企業者以外に「屈服」という語を与えることで、歴史的必然性を具現化させるという官僚制の起源での積極的な役割を奪い、無抵抗な隷属、維持、継承という消極的な役割を与えており、これは官僚制支配への不可抗性から生じる弊害とそれに対する非主体的な態度という二重の責苦を与えていると言えよう。だが、ここまで読んできて思うのは、企業者が企業者以外の地位に転落することはないのか?という点である。大企業になればなるほど「大規模団体」となり転落するかもしれない、とウェーバーは言うかもしれない。そうすると、当初の「企業者」は確実な線で述べるとすれば、官僚制のない「小経営」になるだろう。しかしながら、「小経営」の知識がウェーバーの述べる「官僚制にまさ」るに該当しうるのか?仮に該当するとしても、「小経営」が合理的支配の不可抗性から解放されているといえるだろうか?官僚制云々以前に官僚制に相手にされなかったとも言えないか?ウェーバーへの問いはつきない。